歴史・あゆみ

1947年、大阪市靭にて
「大阪鰹節(株)」として創業。

旨味あふれる鰹節と
人情味あふれる仲間たちと共に、
時代の荒波を幾度も乗り越えてきた
大鰹のあゆみをご覧ください。

History
  • 1940~
  • 1960~
  • 1990~
  • 2020~

商売の財産は
信頼関係

Prologue

「商売は信用や。人に信用される自分に為ること、そして人に信用される自分を売ることや。商品より自分を売る、これが商売の基本や。」
1909(明治42)年、三重県明和町明星の農家の三男に生まれた山中政七は、14歳の時、大阪市西区靱(うつぼ)にある老舗鰹節問屋に丁稚奉公に入った。当時の靱海産物市場には鰹節問屋が24軒、仲買商が102軒、兼業が14軒あった。永代浜の川岸にも鰹節の荷船がまだ何艘も舫われ、堀にはいくつもの橋が架かっていて界隈はなお江戸期の情趣を残していた。

「商売に失敗はつきもんや、怖がっていたら好機を逃す。こうと決めたら度胸で大胆に遣るだけや。勝機は自分で創るもんや。」
1931(昭和6)年、大阪市中央卸売市場の開場に伴い、大阪海産物株式会社に入社した。秀吉が町を整備し徳川幕府が振興し、明治、大正、と引き継がれた靱の海産物市場が閉鎖されることになったのである。

「人生の最初の飛躍だった。兎に角一心不乱に働いた。私を支えてくれたのは、妻と、丁稚・会社時代に培った信用だった。品物は上手く回転させることが出来た。私自身荷車を引っ張って朝から晩まで売り歩いた。私の商売の一番の財産は、この時の人間関係だ。」
1936(昭和11)年、馴染みの深い靱に狭い間口ながら二階家を借り、「山中商店」を独立開業した。生産者からは少しでも高い値で仕入れ、仲買業者には少しでも安い値で卸す・・・そういう市場の相場を政七という男の甲斐性は実に巧みにさばいた。

「私は統制外で商売をしていた。」
1939(昭和14)年、価格統制令が発令された。統制下では物資は極端に不足し、市場も消費も沈滞し、人々の暮らしは困窮するばかりであった。

「統制会社では鰹節をたった2回集荷しただけ。全国に配給する程の量は集まらず、後は全く仕事が無くなった。」
1941(昭和16)年、鰹節の流通は、新たに設立された「日本鰹節類統制組合」に統合され、政七も営業部長としてやむなくこの統制会社に入社した。

「丁稚の時以上に厳しかった。」
1943(昭和18)年、愛知県豊川の海軍工廠で、徴用工の政七は明けても暮れても20ミリ機関銃を製造していた。

創業は、
焼け跡からの再出発

1947

「鰹節のほか乾物を中心に食料品なら何でも取り扱った。売れれば、人間元気になるもんや。お客さんにも喜んで貰える。喜ぶ顔見たら更に元気が湧いて、もっと商売頑張らな、という気持ちに為ってくるもんや。」
1947(昭和22)年、「大阪鰹節株式会社」設立。焼け跡の大阪難波から再出発した。この年を大鰹は創業年としている。政七の気持ちはあくまで再スタートであったが、一から出直しという思いもあった。

「鰹節で商売するなら、靱しかない。」
1949(昭和24)年、空襲で焼け野原となった靱に社屋を構えた。丁稚時代の記憶に残る町の姿はどこにもなく、靱の大部分は占領軍の飛行場になっていたが、西区靱南町通三丁目三番地に、奇跡的に焼け残った旧大和田銀行ビルを300坪の土地ごと購入した。威風堂々の重厚な石造りの旧銀行ビルは鰹節屋にはいささか不似合だが、大阪鰹節の勢いを誇示するのには十分以上の社屋であった。現在建物はないが、門柱は靱公園にある「永代浜跡の碑」として残っている。

助け合い、協同組合

1949

「鰹節業者というのは元来零細である。漁港の周辺で、家内工業的に作られている。それを集荷している我々もまた零細である。だから零細の者たちが集まり、協同組合を作って互いに助け合っていかなければいけない。」
1949(昭和24)年、大阪の鰹節業界を盛り上げようと、政七が発起人の一人となり「大阪鰹節類商工業協同組合」を設立した。

一企業としてではなく、業界としてどうあるべきか。
日本の食文化を支える企業とともに業界全体で盛り上げたいという想いは、創業当初から懐いてきたものであり、私たち大鰹の信念となっている。

1955(昭和30)年になると、遅れていた靱界隈の整備も進み、なにわ筋の拡張工事がはじまろうとしていた。大阪鰹節の社屋はちょうど計画道路上にあったために移転せざるを得なくなり、現在のなにわ筋と本町通りの交差点の西北の角地に移り、社屋を新築。330坪の敷地に三階建の事務所と倉庫を設けた。

新時代「大鰹」へ

1963

「ええか、いまの家に畳の部屋がどんだけある?全部が畳の部屋の間は鰹節の商売も大丈夫や。けどな、洋間に取って替わられたら商売はしんどなるで。」
1963(昭和38)年、社名を「大鰹(ダイカツ)」に改めた。食の洋食化が流行し始め、鰹節の消費は次第に減少傾向に。時代の変化の中で、より一層会社を大きく前進させるために「呼びやすく、親しみやすい名前の方が覚えてもらいやすい」という想いであった。
目くるめく時代の中でも、創業から変わらずに守り続けているのは、信頼関係や助け合いの精神。未来の業界を担う若者が日本中から大鰹へ集まり、商売のイロハを学び、大鰹魂を受け継ぎ、そして巣立っていった。何十年にもわたり築いてきた、損得ではない人との繋がり。今でもなお大鰹にとってかけがえのない財産であり、支えになっている。

大鰹学校

1949年から続く「大鰹学校」。業界で名の知れた鰹節問屋や削り節屋、鰹節の生産者の後継者たちが日本中から修行をしに集まりました。

「同じ人間なんやから、怯んだらあかん。怯まんとやらなあかんで、自分を盛大売れよ。」
1969(昭和44)年、政七は大阪商工会議所の一号議員になり、翌年には食料部会副会長に就任した。

「鰹節の商売はな、一生、勉強に勉強やぞ。」
1980(昭和55)年、政七は社団法人日本鰹節協会会長に就任した。振り返れば、いがぐり坊主の少年が独り故郷を旅立ってから57年の歳月が経っていた。

「おれはまだ死なんぞ!」
1982(昭和57)年、山中政七は波乱の人生に幕を閉じた。臨終に臨んでもまだ、太々しく、しぶとい。享年74歳だった。

生命線は
「在庫力とスピード」

1990

1990(平成2)年、社屋を大阪市港区に移転。問屋の使命は、年間を通して鰹節を安定的に供給すること。市場に求められる豊富な品揃えと対応スピードの強化を図るべく、「完全自動搬送式冷蔵倉庫」を完成させた。当時、業界でも例のない先進的な倉庫で、新聞にも大きく掲載された。

“問屋不要論”も囁かれる中で、なお考え続け、あえて勝負を仕掛け、進化させていく。先代から受け継いだ大鰹精神が、時代の波に呑まれることなく、本業の地盤をより強固なものにした。

鰹節のプロ中の
プロとして

2021

歴史と共に先人たちが培ってきたノウハウとネットワーク、そして連綿と受け継がれてきた大鰹のDNAを次の時代へ。
そのために掲げたテーマは「原点回帰」。

日本の食文化を支える“だし”。だしを支える“鰹節”。
そして問屋の原点は、生産者と消費者をつなぐ役割だと考える。

決して日本人が鰹節の旨味を忘れたわけではない。低価格偏重の今の流通にあっても、手間暇を惜しまない製造と品質重視の丁寧な販売を応援し、鰹節そのものの価値を高めていく。日本人としての食の風景を甦らせる。品質の向上なくして日本の食文化への貢献はありえない。

啓蒙普及活動

日本の食を支える鰹節を未来の食を担う子どもたちに伝えるための啓蒙普及活動を現在も続けています。

私たち大鰹は「鰹節のプロの中のプロ」として、日本の食の文化と精神を後世へと継承することを使命に据え、これからも卸問屋としての旨味を出してまいります。
日本の食文化を支える企業様と共に、もっとポジティブに、活きのいい世界を目指して。